おっさんの韓国生存記

韓国で住んでいる中年の男です。

上司に逆らう40歳

40歳の古巣で、会社で特に居場所がないと感じている中堅の男です。新しく異動してきた上司と馬が合わないのか、何故かよくぶつかります。最初は呼び出されては注意を受けて、以後改めますといいながらその場を凌ぐのですが、似たようなミスをしたのでしょう、今日も呼び出されて怒られました。どういう失敗かと言うと、資料をメールで送るとはマナーがなっていないということでした。「?」という文字しか頭に浮かばないのですが、上司が言うにはメールで送らず必ず資料をプリントアウトして紙で渡し、その内容を口頭で報告しろとのことでした。「?」しか頭に浮かばず、「はい」とも「いいえ」とも言えないまま突っ立ってから、あのADHDが静かにゆっくりと発動してしまいました。

「何故メールでダウンローでできるのにプリントアウトする必要があるのですか?」

「どうせ修正食らうの分かっているので、紙を何度もプリントアウトすることはもったいないじゃないですか?」

あまりにも純粋な声で淡々と意見を言う僕に唖然とした上司は話をすりかえて、

「そもそもお前は日本育ちなんだから、韓国語のメールも何だか礼儀正しくない。」といってくるので、

「僕は文章力には特に困っていません。僕のメールでどういう単語や言い回しが引っかかったのか教えてください。」というと、

「お前は感情をモロに出して上司に歯向かうって言うのか」と出てくるので、

「感情をモロに出しているのは上司、貴方ですよ」

と言ってしまい、椅子に座って無意味な議論が延々と続いたのです。

とりあえず、上司は「君には成長してもらいたい」みたいなことを真摯に言ってくるので、ありがとうございます。とだけ一言言って去ろうとしましたが、またエンドレスなキャリア論を振りかざしながら俺はお前の上司だと言わんばかりの展開が継続したのでした。

最後は「頑張ろうね。」ととりあえずその場しのぎの挨拶で終わったのですが、私は本当に納得が行きません。プリントアウトをするのが当然で、メールでファイルを送るのが無礼だという文化は、いつの時代の話なのでしょう。

今日は疲れました。自分に反省する点はあるのでしょうが、僕には理不尽に思えてなりません。でも、このような世界で生きているのです。ADHDにはつらい日常ですが、薬を飲んで、しっかり寝て、明日も頑張りましょう。

40歳の勉強

40歳になっても継続して勉強する必要があることは誰もが分かっていることだ。しかし、40歳になれば誰でも勉強することができるわけではないという意見も多数ある。何故なら社会から排斥されないよう、家族を守るため、必死に働こうとすることで、勉強について考える心の余裕がないからだ。そしてもうひとつは、40代に入って勉強したところで頭に入らないと思っている人も多いだろう。

 

しかし、私は40歳こそが最も勉強しなくてはならない層であると考えている。40代は、会社では古巣扱いで明日どうなるのか分からない、時代の変化が激しく現状のスキルだけで死ぬまで飯をくっていくというのは無理がある、中年おじさんというだけで無能扱いされる可能性が高いため常に自分をアップデートして価値を証明しなければならない、といった40代特有の課題にぶつかるようになる。そのような状況を打破するためには、新しい知識とスキルを常に吸収して磨いていくための勉強しか、他に道はないだろう。

 

私はこれまでマーケティングの仕事を中心にキャリアを積んできたのだが、突然FP&Aという企画・会計系の職に回された。ある人はこう思うかもしれない。40代になって全く畑違いの仕事を任されるというのはもう用無しということではないのか。確かにその通りかも知れない。だからといって、現状を嘆いていても何もかわらない。だから40歳で新入社員になったつもりで会計の基礎から勉強を始めている。

 

しかし、会計を学んでいくとこれまで必須であったにも関わらず知らなかったことがどれだけ多かったのか、会計知識がビジネスマンんとしてどれだけコアな要素なのかということを身を持って感じるようになった。せっかく新しい職種についたのなら、いっそのこと専門家になってみるのはどうだろうという意欲が湧いてきた。マーケターでは中々証明することの出来なかった自己スキルだって、米国会計士などの資格をとれば、グローバルに通じるスキルの証明になり、私自身の価値向上につながるのではないか。英会話の勉強もまたこつこつと行い、僕の居場所を探すことができるようだという希望が生まれ始めた。世界は広い。40歳だろうが50歳だろうが、確実な経験とスキルさえ証明出来れば、どこかで働く、あるいは収益化構造を自分で作ることなど難しい話では無いだろう。

 

このような考えの下、とりあえずは会社のFP&Aの仕事を実践練習の場として捉え、資格試験の勉強を理論武装の場として捉えることで、短期間で専門家になることが可能ではないだろうか。そのためには効率的で合理的な勉強方法が必要となる。40歳の脳を知り、それに沿った勉強方法を誠実に実行することで確実に成果を出すようにするのだ。

 

では、どのように勉強をすればよいのか。ここは40歳のベテラン会社員らしく、戦略的に勉強計画を立てて行きたいところだ。まずは、勉強には順番が必要だ。会計の基本も知らない人間がいきなり会計士の問題を解けるわけがない。以下のステップで行うのが理想だ。①会計の入門書を複数読む。②会計の基本講義をオンラインで聴く。③会計の基本問題を練習する。④米国(管理)会計士のコースの講義を聴く。⑤④の問題集を解いて解いて解きまくる。⑥①から⑤を実践する時に、記憶をするということを意識する。これには感情と共に記憶する、基本的理論を理解した上で丸暗記はしない、アウトプットこそが記憶の基本であるということが重要な要素となるだろう。

 

私は副業、本業、ダイエット、勉強という4つの領域が日常のメインになっているため、中々まとまった時間をとる事はできない。従って、こつこつと少しづつ毎日継続することしか、できることはない。しかし、脳の構造からして、継続することを諦めなければ必ず光が見える時が来るものである。だから、理解ができなくても、問題が解けなくても、継続してできるまでやるのだ。

 

私は、グローバルに活躍するお金の専門家になる。そして富裕層の仲間入りになる。40にして、迷わず、なのだ。

40代の脳

このブログで何度も言及しているように、私は今年で満40歳。いつの間にかミドル世代に突入したわけである。しかし、何者にもなれておらず、数ある目標も何一つ達成出来ていない。それにも関わらず老化という過酷な運命を受け入れなくてはならないため、楽観的な日常を過ごすには無理がある。

従って、私自身の機能を老化に抵抗しつつかつ最大限に効率化させる必要がある。そして、老化と効率化の対象となるのが脳の機能になる。脳は基本的に老化と共に萎縮していき、全般的な機能が低下していくため、年とともに認知力や瞬発力などといった脳機能による力が衰えていくというふうに言われている。しかし、多くの文献に書かれているように、脳細胞のネットワークは年齢とともに複雑化していき、より高次の機能を保有するに至るというふうに言われている。

つまり、脳は年齢とともに低下する部分もあるだろうが、一方で成長する部分もあるということだ。だったら、この自然現象を受け入れて、脳が高度化する部分にフォーカスして、それを最大化していき、さらに老化による退化速度を低下させていけば、40代からでも伸び代はあるわけである。諦めさえしなければ、40代からでも成長することが可能である。

では、どうすればいいのか。様々な文献によれば、基本的には健康的な生活が最も重要であるということが分かる。特に規則的な運動習慣が脳機能の改善に最も効果的なアクションであるというふうに言われている。そして、新しいことを学びながら、新しい知識を受け入れていくことで、脳細胞のネットワークをより複雑化かつ精密化させていくことも重要だ。これは、読書や資格を取るなどといったアクションにより実現することができるであろう。

私は、収益化を最大化するためのアクションとして現在、読書や資格といったアクションを毎日のルーティンワークとして取り入れているのだが、ここに運動を加えることで、脳の機能をより改善させることができるようになる。一日の時間は限られており、家族との時間も大切にしなければならないが、私が発展していくことで、時間も家族の幸せも増していくことになると考えている。だから、時間のマネジメント戦略を綿密に立てて、一日1%ずつでも脳の昨日を改善して行けるようにアクションを起こしていきたいと思う。

40代になっても30代より成長できるということを私が身を持って証明して行きたい。

在日韓国人の韓国キャリア

私は大阪生まれの在日韓国人出身で、現在はソウルで居住している40歳のミドル男性だ。現状、韓国の最大手企業の一つで課長職として働いている。どこの国で働こうと同様だろうが、通勤するのは億劫で、40代に突入すると古巣扱い、毎朝来る明日が不安だ。

只、私のような在日韓国人で韓国大手で働いている人間は極少数だろうから、40歳になるまで、どのような道を歩いてきたのかを簡単にまとめてみながら、自分自身のキャリアパスについて考えてみたい。

私は大阪にある進学校を卒業し、韓国の国立大学に今でいうグローバル人材選考のような選抜過程を経て入学した。当時、韓国語の実力は聞き取りは可能で、レポートを書くには少し不足している状態だったが、理学部への進学を希望していたため、そこは特に問題にならなかったようだ。

入学してからは、サークルと勉強を延々と繰り返す日常で、両親からの仕送りと日本語の家庭教師のアルバイト代で生活をしていた。物理と数学メインの日常だったため、周囲には華やかさは全くなく、色恋沙汰もあってもすぐに失敗に終わった。

学部在学中に、在日韓国人が本国に来れば共通して経験する<自己アイデンティティクライシス>を経験しながら、未来像を描くことができない不安も重なりパニック障害が発症した。それを起点に哲学や社会学、人類学などの文系学問にはまって行き、専攻を変えて大学院修士まで卒業することになった。

そこまでは良かったのだが、そこからどう生きていくのかについての答えを見いだせないまま、日本語の講師や知人の事業の手伝い、スタートアップ企業への就職などを経験したものの、当時は頭の中にキャリアパスという概念が存在しなかった。

結婚をきっかけに安定的な収入とキャリアパスについてのニーズが生まれ、28歳で韓国の最大手グループの一つに履歴書を送り、内定をもらうに至った。韓国では男性なら30歳手前までなら、年齢に関係なく新卒採用されるケースが少なくなかったので、私も新卒として入社することができた。

それからは、営業、マーケティングの経験を数年積んで、日本の駐在員に抜擢され、海外駐在員として日本へ戻ることになった。6年ほど日本の都会で生活をし、駐在手当てなどの手厚い福利厚生によって、それなりに優雅な暮らしをすることができた。しかし、ここに甘んじていいのだろうかという不安感が募り、会社にしがみついてはいられないという考えが強まり、独立という選択肢を漠然と抱くようになった。そのひとつとして、お手軽に見えた行政書士の資格試験の準備を行ったものの、心底興味のある分野ではなかったためか、勉強に身が入らず、試験は受からず仕舞いだった。

そして駐在員生活5年目の末頃、韓国への帰任辞令が下され、優雅な生活との別れをしなければならなくなった。行政書士の試験に受からずに戻ってしまうことに一抹の未練を感じながら、不完全燃焼の状態での帰国だった。帰国を前後に、不透明な未来への漠然とした不安、年齢を経ることによって狭まってくる選択肢による不安などが重層的な心的圧力として作用した結果、鬱や不安症といった症状が発症し、精神科でアルプラゾラムという安定剤を処方してもらうに至った。

本国には22年の春に戻り、海外営業部の南米地域を担当させられた。全くの畑違いだったため、ためらいながら仕事に向かったものの、毎日のように感じる違和感、異邦人になったような感覚、顧客からの時差違いによる朝4時の連絡などが重なり、人事部へ相談するに至った。<ここは違うような気がして毎日がつらいです。>そして、人事部の配慮によって、本社の最上階にある経営企画部への異動が決まった。私は、帰国後8ヶ月経ってから現在まで、この経営企画部でグローバル子会社の事業管理業務を行っている。

経営企画部の仕事もやはり畑違いで、会計とExcel中心の事務業務がメインだった。その分野の知識がないため、独学で知識を詰め込みながら、何とか1年ほど持ちこたえている。ただ、その間、私の精神は疲労困憊になってしまったようで、精神科への通院はルーティンになっていた。そして精密な診断を受けたところ、ADHDであるとの診断を受けた。これは今年の4月時点での話だ。現状薬を飲みながら、社会生活を送っているのだが、未来への不安はより一層強くなっていったのは言うまでもない。

そして、気がついたら満で40歳になっていた。何者にもなっていない未熟者状態であるにも関わらず、40歳に突入した。その恐怖感と無気力感に苛まれ、日本でよく使われているミドルクライシスという状態になってしまったようだ。

ここまでが、私が歩んできた道だ。これからどこへ向かえばよいのか、未だに分からない。ただ、今の精神状態を考えると、このまま会社にしがみくところで所詮毎日が死闘で、だからといって何かが変わるわけでもない、そんな時間を過ごしながら退職を迫られていくのだろうということは明確だ。<このままでは死んでしまう。>という具体的な危機感を感じた私は、<どうすれば、死なないでよいのか。>を考え始め、いち早く経済的自由な状態を作ることに専念することを決意した。

短期間で副業と株式投資の知識を詰め込み、給料とは別の定期的キャッシュフローを構築し始めた。そして<お金>についての専門家的知識を持つことが重要であると判断して、米国(管理)会計士等の資格試験の勉強を始めた。行政書士試験での痛い傷跡が癒されたわけではないが、死にもの狂いで取るしかないという感覚の下、勉強を継続している。そしてまだ漠然としているものの、大きなキャッシュフローを生み出す事業体を一つ立ち上げるべきだと思い至るようになった。

現在、ソウルで40歳のミドルクライシスに直面している中、生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされているような感覚の中で生活している。まるで戦争のようだ。このミドルの時期を生き抜き、経済的自由を達成することに光明があるのかはわからない。しかし、可能性として存在していることは明確だ。僅かな希望を胸に、ただ淡々と毎日を生き抜いていく。それが現在の私だ。

韓国、そして40歳

僕は、29歳から32歳までは韓国のソウルで、33歳から38歳までは日本の横浜みなとみらいで、39歳以降は韓国のソウルで仕事をしている。韓国の最大手メーカーの一つである現在の会社で、かれこれ11年以上仕事をしてきた。営業、マーケティング、経営企画と分野も多種に渡っており、学校では経験できないような成長機会をもらってきたと思っている。要はビジネスの基本を仕込んでもらった。そして現在は、経営企画、通称FP&Aとして任務を遂行しているのだが、アカウンティングの知識が弱いことを自覚しているので、アメリカの会計関連の資格を目指して勉強もしている。

僕は現在40歳だ。40歳になる頃には何者かになるものだと思っていたが、結果的には何者にもなれず、会社にすがりついている枯れ果てた社員になってしまっている。毎日の通勤が苦痛で、この歳になってまで誰かに指図や注意をもらいながら仕事をしている自分を見ていると、時折惨めな気分になってしまう。上の世代からも下の世代からも厳しい視線が投げかけられているようで、社内コミュニケーションすら億劫に感じる。そろそろ、このような生活を終わらせる頃合かな、と静かな確信が心の中で芽生え始めている。

じゃあ、どうする。という質問から始まり、米国株式投資による配当金フローの構築、ブログ収益化の本格化、米国会計士関連の資格をとることによる専門性の証明、英会話練習の再開、など、自己啓発のための本格的な動きを始めている。30代後半にはこのような考えには至らず、日本の行政書士の資格を目指して独立を考えていた時期があったが、勉強が甘かったせいで複数回受験したものの受からず、韓国へと来てしまった。韓国に戻ってきた頃は、日本にいる間に何も成しえなかった自分に対する嫌悪感に苛まれ、うつ病、不安症、注意力障害などを訴えながら精神科へ向かった。現在進行中でADHDの治療を受けている。

韓国ではNジョブという言葉が流行しているが日本で言う副業のことだ。韓国でもインフレーションが継続して進む中、給料が上がらないため、日常の生活と老後の蓄えに対する極度の不安に、皆が苦しみもがいている。ブログ、不動産投資、株式投資、自営業等、日本と同様、多くのサラリーマンが複数の収益を得ようと忙(せわ)しなく努力している。僕も例外ではない。韓国の厳しいビジネス界で、どうやって生存していけばよいのか、追加収入を得るためにはどうすればいいのか。毎日のように読書をして、オンライン講義を聞いて、英語のレッスンを受けている。正直疲労感を感じることが多い。いっそ安楽死でもできればと考えてしまうこともある。

40歳を節目に退化していく中、意味もなく走り続けるハムスターのような人生が、とても無価値なものに見えてならず、これ以上生きて何の意味があるのだろうかという疑問を抱きながら、今日もハムスターのように闇雲に走り続ける。とりあえず、今やろうとしていることの方向性は間違っていないだろうし、行政書士に受からなかったことに対する悔しさも、より一層レベルの高い資格を目指すことでとりあえずは隠れてくれた。走る心の燃料はまだ少し残っている。何者でもない僕が、日本と韓国、そして世界を舞台に、どのように生き残っていくのか、少しづつ記録して、反省して、静観しながら、ただ、生きていくのだ。

酒、そして40歳

40歳になりお酒とどう付き合ってゆけば良いのかを真剣に考えている。30代は酒池肉林だけが唯一の目的であるかのような生活をしてきたものの、40歳になると自分を客観的に見つめながら今後の生活を改めようという意識が芽生え始めた。要するに、体力も気力も退化していく中で、お酒を飲むことは、それを促進することでもあるため、お酒を減らすべきであるということだ。

しかし、自分はアルコール中毒の前段階にあるようで、未だにお酒を飲み始めると気絶するまで飲むのが止まらない。自制が効かないのだ。どうしてこうなってしまったのかは分からない。しかし、いつの頃からか、お酒を嗜むという行為は、お酒に飲まれることであるということを、体に染み付いてしまったようだ。

一体どうすればこのような状況から抜け出せるのだろうか。答えは簡単で、お酒を飲まなければいいのだが、お酒を飲まないということは、我慢をするということと同義であるため、それはある時点で限界に達するということでもある。限界を超えてしまった時は、それまでの我慢に対する補償をするかのように、ガバガバと飲み尽くしてしまうのがオチだ。

僕はお酒を辞めたい。しかし、僕はお酒を飲みたい。このジレンマをどう解消すればよいのか、結論は単純だ。お酒を少し飲めば良い。これができれば、万事が解決するわけだが、それができればとっくの昔にやっているはずだ。できないから40歳を過ぎても未だに苦しんでいるのだ。

お酒は、少し飲むだけでも脳へ悪影響を及ぼすようで、脳細胞を活性化させていきたい自分としては、一番さけなければならない。これまで、読書や運動、資格試験の勉強という形で人並み以上には努力を積み重ねてきたものの、結果がでなかったのはやはりお酒を飲んでリセットされてしまったからかもしれない。

お酒に変わる代替品があるか。大麻などのドラッグ類はさすがに手をだせないだろうし、コーヒーやコーラ程度では満足がいかない。やはりお酒を飲むという行為はある種特別な行為であるため、それに代わる嗜好品を見つけるのは簡単では無い。お酒をなるべく飲まない状態を長く保てるよう、継続して努力するするしか外はない。つまり、飲まないようにするけれど、たまにはちょっとはいいじゃん的なノリで過ごすのが今のところは現実的な最適解になる。

 

パクソジュンとbibigo冷凍キムチ

 画面を掌握する顔と演技で有名な韓国俳優パクソジュンを知らない人は少ないだろう。いつからか、パクソジュンを始めとした韓国のトレンド俳優の知名度が日本では一般的に浸透している気がしている。

 それはそうとして、パクソジュンといえば様々な韓国ドラマを思い浮かべる人が多いだろうが、私はそうではない。パクソジュンといえばキムチを先に思い浮かべてしまうのだ。何故かというと、昨年の秋ごろに偶然にみかけたTVCMがきっかけとなった。


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  上記のCMを見た人は多くはないだろう。短い期間の間に、刹那的に流れていたと記憶している。上記のCMを見れば分かると思うが、パクソジュンのドラマ「キム秘書は何故?」のシチュエーションがモチーフになっている。

 それはいいのだが、この、「冷凍キムチ」という代物に私は心を動かされた。キムチといえば、発酵する食品であるため、冷蔵庫ににおいがつく、味が変わる、賞味期限が短いなど、様々なデメリットを甘受してまで食べなくてはならなかった。勿論、東海こくうまキムチのような発酵しないキムチは論外である。

 しかし、この冷凍キムチの場合は、キムチの味が旬の頃合を見計らって急速冷凍したというだけあって、溶かして食べて見ると、味わいが丁度いい。そして、冷凍庫に匂いがつかずに賞味期限も1年、小さいパウチサイズなので場所をとらないなど、メリットだらけのキムチなのである。

 そこで、冷凍キムチについてもう少し調べて見ると、このような動画もあった。おそらくメーカーがいくつか冷凍キムチのデジタル広告をつくったのだろう。


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  このキムチの便利さは下記のような状況で、画期的に役に立つ。


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 おつまみを食べたいとき、何か料理の足しにしたいときといった具合に、いつでも使えるので、便宜性という観点では、世界にないキムチのイノベーションであることには違いないだろう。私はこれを現在愛用しているのだが、世間では思ったほど、この画期性に気づかれていないようで誠に残念なことである。

 因みにパクソジュンであるが、韓国メーカーのキムチのモデルとなっているようで、次のような動画が最近公開されている。


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  おいしさマックスのキムチという感覚を覚えさせるキムチである。世間ではパクソジュンといえばドラマらしいが、私にとっては、パクソジュンといえばキムチである。