おっさんの韓国生存記

韓国で住んでいる中年の男です。

在日韓国人の韓国キャリア

私は大阪生まれの在日韓国人出身で、現在はソウルで居住している40歳のミドル男性だ。現状、韓国の最大手企業の一つで課長職として働いている。どこの国で働こうと同様だろうが、通勤するのは億劫で、40代に突入すると古巣扱い、毎朝来る明日が不安だ。

只、私のような在日韓国人で韓国大手で働いている人間は極少数だろうから、40歳になるまで、どのような道を歩いてきたのかを簡単にまとめてみながら、自分自身のキャリアパスについて考えてみたい。

私は大阪にある進学校を卒業し、韓国の国立大学に今でいうグローバル人材選考のような選抜過程を経て入学した。当時、韓国語の実力は聞き取りは可能で、レポートを書くには少し不足している状態だったが、理学部への進学を希望していたため、そこは特に問題にならなかったようだ。

入学してからは、サークルと勉強を延々と繰り返す日常で、両親からの仕送りと日本語の家庭教師のアルバイト代で生活をしていた。物理と数学メインの日常だったため、周囲には華やかさは全くなく、色恋沙汰もあってもすぐに失敗に終わった。

学部在学中に、在日韓国人が本国に来れば共通して経験する<自己アイデンティティクライシス>を経験しながら、未来像を描くことができない不安も重なりパニック障害が発症した。それを起点に哲学や社会学、人類学などの文系学問にはまって行き、専攻を変えて大学院修士まで卒業することになった。

そこまでは良かったのだが、そこからどう生きていくのかについての答えを見いだせないまま、日本語の講師や知人の事業の手伝い、スタートアップ企業への就職などを経験したものの、当時は頭の中にキャリアパスという概念が存在しなかった。

結婚をきっかけに安定的な収入とキャリアパスについてのニーズが生まれ、28歳で韓国の最大手グループの一つに履歴書を送り、内定をもらうに至った。韓国では男性なら30歳手前までなら、年齢に関係なく新卒採用されるケースが少なくなかったので、私も新卒として入社することができた。

それからは、営業、マーケティングの経験を数年積んで、日本の駐在員に抜擢され、海外駐在員として日本へ戻ることになった。6年ほど日本の都会で生活をし、駐在手当てなどの手厚い福利厚生によって、それなりに優雅な暮らしをすることができた。しかし、ここに甘んじていいのだろうかという不安感が募り、会社にしがみついてはいられないという考えが強まり、独立という選択肢を漠然と抱くようになった。そのひとつとして、お手軽に見えた行政書士の資格試験の準備を行ったものの、心底興味のある分野ではなかったためか、勉強に身が入らず、試験は受からず仕舞いだった。

そして駐在員生活5年目の末頃、韓国への帰任辞令が下され、優雅な生活との別れをしなければならなくなった。行政書士の試験に受からずに戻ってしまうことに一抹の未練を感じながら、不完全燃焼の状態での帰国だった。帰国を前後に、不透明な未来への漠然とした不安、年齢を経ることによって狭まってくる選択肢による不安などが重層的な心的圧力として作用した結果、鬱や不安症といった症状が発症し、精神科でアルプラゾラムという安定剤を処方してもらうに至った。

本国には22年の春に戻り、海外営業部の南米地域を担当させられた。全くの畑違いだったため、ためらいながら仕事に向かったものの、毎日のように感じる違和感、異邦人になったような感覚、顧客からの時差違いによる朝4時の連絡などが重なり、人事部へ相談するに至った。<ここは違うような気がして毎日がつらいです。>そして、人事部の配慮によって、本社の最上階にある経営企画部への異動が決まった。私は、帰国後8ヶ月経ってから現在まで、この経営企画部でグローバル子会社の事業管理業務を行っている。

経営企画部の仕事もやはり畑違いで、会計とExcel中心の事務業務がメインだった。その分野の知識がないため、独学で知識を詰め込みながら、何とか1年ほど持ちこたえている。ただ、その間、私の精神は疲労困憊になってしまったようで、精神科への通院はルーティンになっていた。そして精密な診断を受けたところ、ADHDであるとの診断を受けた。これは今年の4月時点での話だ。現状薬を飲みながら、社会生活を送っているのだが、未来への不安はより一層強くなっていったのは言うまでもない。

そして、気がついたら満で40歳になっていた。何者にもなっていない未熟者状態であるにも関わらず、40歳に突入した。その恐怖感と無気力感に苛まれ、日本でよく使われているミドルクライシスという状態になってしまったようだ。

ここまでが、私が歩んできた道だ。これからどこへ向かえばよいのか、未だに分からない。ただ、今の精神状態を考えると、このまま会社にしがみくところで所詮毎日が死闘で、だからといって何かが変わるわけでもない、そんな時間を過ごしながら退職を迫られていくのだろうということは明確だ。<このままでは死んでしまう。>という具体的な危機感を感じた私は、<どうすれば、死なないでよいのか。>を考え始め、いち早く経済的自由な状態を作ることに専念することを決意した。

短期間で副業と株式投資の知識を詰め込み、給料とは別の定期的キャッシュフローを構築し始めた。そして<お金>についての専門家的知識を持つことが重要であると判断して、米国(管理)会計士等の資格試験の勉強を始めた。行政書士試験での痛い傷跡が癒されたわけではないが、死にもの狂いで取るしかないという感覚の下、勉強を継続している。そしてまだ漠然としているものの、大きなキャッシュフローを生み出す事業体を一つ立ち上げるべきだと思い至るようになった。

現在、ソウルで40歳のミドルクライシスに直面している中、生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされているような感覚の中で生活している。まるで戦争のようだ。このミドルの時期を生き抜き、経済的自由を達成することに光明があるのかはわからない。しかし、可能性として存在していることは明確だ。僅かな希望を胸に、ただ淡々と毎日を生き抜いていく。それが現在の私だ。